LOGIN玄関の向こうから、足音が近づいてきた。
やがて鍵の開く音がして、引き戸が静かに開く。
「お待たせしました」
現れたのは、智恵子が想像していた人物とはまるで違う青年だった。
背が高い。
百八十センチ近くはあるだろうか。
濃紺のスーツに白いシャツ。ネクタイも派手ではなく、髪もきちんと整えられている。
年齢は二十代半ばくらい。
整った顔立ちをしているが、どこか親しみやすい。
何より、爽やかだった。
霊能者の相談所から出てくる人間としては、あまりにも普通に見える。
青年は智恵子を見ると、軽く会釈した。
「森川さんですね。お待ちしていました」
「はい」
智恵子も慌てて頭を下げる。
「森川智恵子です。本日はよろしくお願いします」
「篠崎と申します。こちらで先生の助手をしています。どうぞ、中へ」
声も話し方も普通だった。
妙に勿体ぶることもない。
「先生がお待ちです」
などと言いながら意味ありげな顔をすることもない。
智恵子は、自分でも分かるほど少しだけ緊張がほどけた。
少なくとも、この青年はまともそうだ。
それだけで、さっきまで頭の中に浮かんでいた「高い壺」だの「祟り」だのという不安が少し遠のいた。
篠崎と名乗った青年が玄関を大きく開ける。
「段差がありますので、気をつけてください」
「ありがとうございます」
智恵子は靴を脱いだ。
玄関も、ごく普通の家だった。
年季の入った上がり框。
壁際には傘立て。
靴箱の上には小さな花瓶が置かれている。
霊符らしきものもない。
不気味な置物もない。
香の匂いがするわけでもない。
むしろ、どこか懐かしい。
田舎の親戚の家を訪ねたような感じさえした。
「こちらへどうぞ」
湊が先に廊下へ上がる。
智恵子もその後へ続いた。
床板は古いが、きれいに掃除されている。
廊下の先には何枚かの襖と扉が並んでいた。
その一つの向こうから、何かが動いた。
智恵子は思わず足を止める。
茶色い顔が、廊下の向こうからこちらを見ていた。
犬だった。
柴犬。
首輪をつけたまま、少し離れた場所に立っている。
吠えもしない。
尻尾を振って寄ってくるわけでもない。
ただ、じっと智恵子を見ている。
「あ……」
智恵子の声に、湊が振り返った。
「ああ」
犬を見て、すぐに事情を察したらしい。
「源、大丈夫。お客さん」
源と呼ばれた柴犬は、湊を見る。
それからもう一度智恵子を見た。
智恵子は犬に詳しいわけではない。
それでも、その表情がどことなく、
「分かった」
と言っているように見えた。
源は近づいてくることなく、その場でくるりと向きを変えた。
少し歩き、廊下の端で伏せる。
前脚の上に顎を乗せた。
「犬もいるんですね」
智恵子は思わず笑った。
家の前に注意書きがあったことを思い出す。
「います」
湊も少し笑う。
「源っていいます。あまり愛想はないですけど、人に噛んだりはしませんので」
「大人しいですね」
「大人しいというか……」
湊が一瞬、言葉を選ぶ。
「自分から必要以上に関わりたくないタイプですね」
「犬にもそういうのがあるんですね」
「柴犬なので」
その答えが妙に自然で、智恵子はもう一度笑った。
さっきまで霊能者の家へ来たことを後悔しかけていたのに。
柴犬の話をしている。
自分でも少しおかしかった。
「猫もいます」
湊が続ける。
「猫?」
「三毛猫です。おミツっていうんですけど、たぶん勝手に出てくると思います」
「相談中でも?」
「あります」
湊は困ったように笑った。
「扉を閉めても、開けろって騒ぐことがあるので」
智恵子は、ますます拍子抜けした。
霊能者の家に住む黒猫。
そんなものなら、まだイメージに合う。
三毛猫のおミツ。
しかも相談中に勝手に入ってくる。
少なくとも、使い魔には聞こえなかった。
「先生が飼ってるんですか?」
「はい。犬も猫も先生のです」
その言葉で、智恵子は初めて少しだけ興味を持った。
動画で見た、あの長い黒髪の霊能者。
あの男が、柴犬と三毛猫を飼っている。
どうにも結びつかない。
「こちらです」
湊が一つの扉を開けた。
六畳ほどの洋室だった。
待合室らしい。
二人掛けのソファと椅子。
低いテーブル。
壁には落ち着いた色合いの風景写真が掛けられている。
隅には空気清浄機。
テーブルの上にはティッシュと小さな籠。
本当に、ごく普通の待合室だった。
「こちらで少しお待ちください。予約時間になりましたらご案内します」
「はい」
智恵子がソファへ腰を下ろす。
湊は小さなトレーに載せたペットボトルの水をテーブルへ置いた。
「よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
湊は向かいの椅子へ座った。
膝の上に薄いファイルを置く。
「最初に簡単にご説明だけさせてください」
智恵子の背筋が少し伸びた。
「はい」
「今日のご相談についてですが、予約フォームには『半年前に亡くなったご家族について相談したい』とだけ書かれていました」
「……はい」
智恵子は頷く。
確かに、それしか書いていない。
意図的だった。
試したかったのかもしれない。
本当に霊能者なのなら、詳しく書かなくても何か分かるのではないか。
そんな気持ちがなかったとは言えない。
湊はファイルへ軽く視線を落とした。
「先生にも、その内容しか伝えていません」
智恵子は顔を上げた。
「先生には?」
「はい」
「私の名前もですか?」
「森川智恵子さんがお越しになることは伝えています。予約の管理上必要なので」
「そうですよね」
「ただ、亡くなられた方のお名前や、亡くなった原因、ご家族との関係、今回具体的に何を相談されたいのかは伝えていません」
智恵子は思わず、バッグの上で組んだ指に力を入れた。
真琴の名前は知らない。
死因も。
圭吾のことも。
最近聞こえる声のことも。
何も知らない。
「どうしてですか?」
智恵子が尋ねる。
「先生のやり方です」
「やり方?」
「先に情報を入れすぎると、ご相談者の話を聞く前から先入観ができますので」
湊は淡々と説明する。
「もちろん、危険性のある相談や、事前準備が必要な案件については別です。でも通常の霊視相談の場合、先生は最初から細かい事情を聞かないことが多いです」
それは意外だった。
もっと、
「何も言わなくてもすべて分かります」
などと宣伝するものだと思っていた。
「じゃあ……」
智恵子は少し迷ってから聞いた。
「先生、本当に何も知らないんですか?」
湊がわずかに笑った。
「その質問には、僕からは何とも」
「え?」
「僕は霊が見えませんから」
あまりに普通の答えだった。
智恵子は瞬きをする。
霊能者の助手なのだから、この青年にも何か特殊な能力があるのかと思っていた。
「篠崎さんは、見えないんですか?」
「まったく」
即答だった。
「感じたりも?」
「しません」
「怖くないんですか?」
その質問には、湊が一瞬黙った。
「……怖い話は嫌いです」
智恵子は思わず彼を見た。
湊は少し気まずそうな顔をしている。
「先生にもよく言われます。本物の霊能者の助手やってて、なんでホラーが駄目なんだって」
智恵子は思わず笑ってしまった。
今度ははっきりと。
その瞬間、自分が今日初めて自然に笑ったことに気づいた。
娘が死んでから、笑うことそのものに後ろめたさを感じることがある。
真琴がいないのに。
自分だけ笑っていいのだろうか。
そんな考えが浮かぶ。
智恵子の表情が曇ったのを見て、湊は何も言わなかった。
話題を変えるように腕時計へ目を落とす。
「そろそろですね」
立ち上がった。
「ご案内します」
智恵子も立つ。
胸の奥に、また緊張が戻ってきた。
ここまでは普通だった。
家も。
助手も。
犬も。
猫の話も。
だからこそ、この先にいる男が急に現実味を失って感じられた。
霊導師玲玄。
動画の中で見た、長い黒髪の若い霊能者。
本当に、真琴のことが分かるのだろうか。
それとも。
やはり何も分からないのだろうか。
湊が待合室の扉を開ける。
廊下へ出ると、源が先ほどと同じ場所にいた。
こちらをちらりと見る。
それだけだった。
「こちらです」
湊が廊下の奥へ進む。
智恵子は、その背中について歩いた。
「それでは、こちらへ」湊が襖を開けた。智恵子は立ち上がり、玲玄へ頭を下げる。「今日は、ありがとうございました」「いえ」玲玄も軽く頭を下げた。「こちらで確認できることが分かりましたら、ご連絡します」「お願いします」智恵子はそう答えたものの、すぐには部屋を出られなかった。どうしても気になる。振り返る。自分が座っていた場所の後ろ。玲玄が何度も見ていたあたり。もちろん何も見えない。「……真琴は」声が漏れた。玲玄が顔を上げる。「はい」「私が帰ったら、どうなるんですか?」自分でも妙な質問だと思った。どうなる。どこへ行く。そんなこと、生きている人間についてなら聞く必要もない。けれど今、自分の目には見えない娘がこの部屋にいるという。自分だけ帰っていいのだろうか。真琴をここへ置いて帰るような気がして、急に不安になった。「真琴も、一緒に帰れるんでしょうか」玲玄の視線が智恵子の後ろへ移る。少しの間。それから、「今のところ、森川さんについて行くと思います」「今のところ?」言葉が引っかかった。玲玄は穏やかに説明する。「亡くなった方が、ずっと一か所にいるとは限りません」「そうなんですか」「はい。亡くなった場所にいる方もいますし、人についている方もいます。物の近くから離れない方もいます」智恵子は聞きながら、また後ろへ目を向けた。「真琴は、私についてるんですか?」「今は、そう見えます」「じゃあ……帰ったら、家にも?」「おそらく」胸の奥が少しだけ緩んだ。怖いと思うべきなのかもしれない。幽霊なのだから。それでも真琴なら、怖くはなかった。「私が話しかけたら、聞こえてるんでしょうか」「聞こえている可能性は高いです」「返事が聞こえなくても?」「はい」智恵子は唇を噛んだ。それなら。この半年間も。仏壇の前で話したこと。写真に向かって謝ったこと。今日あったことを何となく口にしたこと。あれも全部、聞いていたのだろうか。「先生」「はい」「真琴は……今、何か言ってます?」玲玄は一度、智恵子の背後を見た。数秒。「今は何も」「そうですか」少し残念だった。けれど同時に、ほっともした。これ以上何かを聞いたら、また立っていられなくなるような気もする。「また、真琴と話せますか?」「真琴さんがいれ
「……お願いします」智恵子がそう答えると、玲玄は小さく頷いた。「では、いくつか確認させてください」「はい」玲玄の声音は変わらない。真琴の霊がいるという話から一転して、ごく普通の相談のような言葉だった。湊がタブレットを手に取る。「答えにくいことは、無理に答えていただかなくても大丈夫です」玲玄が付け加えた。「分からないことは、分からないで構いません」智恵子は頷いた。先ほど、自分が娘のことを何も知らなかったように感じたのを察したのだろうか。そう思ったが、玲玄の顔からは分からない。「まず、榊原圭吾さんについて、森川さんがご存じのことを教えてください」「私が知ってること……」智恵子は記憶をたどった。「年は、真琴より五つ上やったと思います」「今なら三十二歳くらいですね」「はい。そのくらいです」「お仕事は?」「会社員とは聞いてました。でも、詳しくは……」会社の名前までは知らない。どんな仕事をしているのかも、真琴から詳しく聞いた覚えはなかった。玲玄はそれ以上追及しなかった。「お住まいは?」「大阪市内やったと思います」「住所は?」「分かりました」また、その言葉だった。分からないことを答えるたび、責められるのではないかと身構えてしまう。だが玲玄は何も言わない。湊も淡々と記録している。「真琴さんと交際を始めたのが、およそ三年前」「はい」「別れたのが、亡くなる半年ほど前」「……たぶん」智恵子は少し迷った。「正確な時期は分からないです」「構いません」玲玄は続けた。「真琴さんが亡くなられたのは?」「三月十七日です」日付だけは、考えるまでもなく出てきた。忘れるはずがない。「時間は分かりますか?」「見つかったのは、次の日の朝です」智恵子は指を握り合わせた。「警察の人の話では、亡くなったのは夜の十時から十二時くらいじゃないかって」「三月十七日の午後十時から、十八日の午前零時頃」湊が確認する。「はい」「場所は?」智恵子が川の名前と、おおよその場所を伝える。湊の指が動いた。玲玄はその間、何も言わず聞いていた。「真琴さんは、その日どこへ行くと?」「それが……」智恵子は首を振った。「何も聞いてないんです」その日は仕事だった。真琴はいつも通り朝に家を出た。「仕事が終わったあと、そのまま帰
おミツが再び羽虫を追い始めたころ、智恵子の意識は自然と圭吾へ戻っていた。ほんの少しだけ緩んだ胸が、また重くなる。真琴はここにいる。玲玄には、その姿が見えている。声も聞こえている。そして真琴は、はっきり言った。圭吾に殺された。なら。「先生」智恵子はハンカチを握り直した。「はい」「私……警察に行った方がいいんでしょうか」玲玄はすぐには答えなかった。智恵子の後ろへ一度視線を向け、それからこちらを見る。「今の状態で行っても、難しいでしょうね」「難しい?」「はい」思っていた答えではなかった。智恵子は眉を寄せる。「でも、真琴が圭吾に殺されたって」「はい」「先生にもそう言ったんですよね?」「言いました」「だったら……」言葉が続かない。何が問題なのか分からなかった。玲玄は真琴が見えると言った。実際、誰も教えていない娘の名前を知っていた。服装まで当てた。圭吾の名前も、智恵子が口にする前に知っていた。その真琴本人が、殺されたと言っている。それなのに。玲玄はまるで、まだ何も始まっていないかのような顔をしていた。「森川さん」声は穏やかだった。「はい」「警察へ行って、何と説明されますか?」「何って……」「娘さんが元交際相手に殺された、と?」「はい」「その根拠は?」智恵子は言葉に詰まった。「真琴が……」そこまで言って、自分でも気づいた。玲玄は責めるような顔をしない。ただ続きを待っている。智恵子は小さな声で言った。「真琴の霊が、そう言ってるって……」「そうですね」玲玄が頷く。「警察に『亡くなった娘の霊が、元恋人に殺されたと言っています』と話して、捜査してもらえると思いますか?」智恵子は何も言えなかった。少し考えれば分かることだった。警察へ行く。受付で事情を話す。娘の幽霊が犯人を教えてくれました。そんな話をしたら、どう思われるだろう。まともに取り合ってもらえるとは思えない。場合によっては、自分の精神状態を心配されるかもしれない。「でも……」それでも納得できなかった。「本当に真琴が言ってるんですよね?」「はい」「先生には聞こえてる」「聞こえています」「だったら、何か……」玲玄は静かに言った。「霊が何を言ったかと、現実に何があったかは別です」智恵子は玲玄を見つめた。
しばらく、誰も口を開かなかった。智恵子はハンカチを膝の上へ置いた。真琴がそこにいる。そう思うだけで、何度も後ろを振り返りたくなる。けれど、見ても何も見えないことはもう分かっていた。代わりに玲玄を見る。玲玄は先ほどと変わらず、静かな顔をしている。真琴の声が聞こえた。そう言った。それなのに、娘の話をそのまま事実とは受け取らない。そのことが、智恵子にはまだ理解できなかった。圭吾に殺された。真琴はそう言っているのに。そのとき。カリ。小さな音がした。智恵子が顔を上げる。カリカリ。今度ははっきり聞こえた。襖の向こうだ。湊がそちらを見る。また、カリカリ。少し間を置いて、「にゃあ」智恵子は瞬きをした。湊が困ったような顔をする。「来ましたね」「猫ですか?」智恵子が尋ねると、湊が頷いた。「たぶん」襖の向こうから、もう一度。「にゃあ」今度は少し長い。玲玄が小さく息を吐いた。「開けてやってください」「いいんですか?」「開けへんかったら、ずっとやります」一瞬。智恵子は玲玄を見た。今の言い方。それまでの丁寧な標準語とは、ほんの少し違った気がした。だが玲玄は何事もなかったように座っている。湊も特に反応しない。「分かりました」湊が立ち上がり、襖を少し開けた。すぐに、小さな頭が隙間から入ってくる。三毛猫だった。白を基調に、黒と茶の毛が不規則に混じっている。顔を覗かせたかと思うと、遠慮する様子もなくするりと部屋へ入ってきた。「おミツ」玲玄が呼ぶ。猫は反応しない。そのまま真っ直ぐ畳の上を歩いていく。「お前、今仕事中やぞ」玲玄が言った。やはり少しだけ、先ほどまでと口調が違う。おミツは当然のように無視した。智恵子は思わず口元を緩めた。先ほどまで、殺された。警察。圭吾。そんな言葉ばかりが飛び交っていた部屋へ、急に猫が入ってきた。しかも、霊能者の言うことなどまるで聞いていない。おミツは座卓の横を通り過ぎる。玲玄が手を伸ばしかけたが、猫はその直前でするりと方向を変えた。湊の足元へ行く。「……お前な」玲玄が小さく呟く。智恵子は、また少しだけ笑った。その声に気づいたのか、玲玄がこちらを見る。「すみません。邪魔でしたら出しますので」「いえ」智恵子は首を振った。「大丈夫で
「本人に、もう一度聞いてみます」玲玄はそう言うと、智恵子から視線を外した。向いた先は、やはり智恵子の後ろだった。誰もいないはずの場所。少なくとも、智恵子には何も見えない。玲玄はしばらく黙っている。まるで、そこに立っている誰かと向き合っているようだった。智恵子は息を呑んだ。「真琴さん」玲玄が静かに呼びかける。それだけで、智恵子の胸が大きく鳴った。「確認させてください」玲玄の目は、智恵子の後ろから動かない。「圭吾さんが、あなたを殺したんですか?」沈黙。時計の音だけが聞こえる。カチ。カチ。カチ。智恵子には何も聞こえなかった。思わず振り返る。襖。畳。壁際の棚。そこに誰かがいるようには見えない。「真琴……?」呼んでも返事はなかった。けれど玲玄は、まだ同じ場所を見ている。その顔つきが、ほんの少しだけ変わった。何かを聞いた。智恵子には、そう見えた。玲玄が僅かに首を傾ける。しばらくして、「……そうですか」と答えた。智恵子はたまらず身を乗り出した。「先生」玲玄がこちらを見る。「真琴は……何て?」玲玄はすぐには答えなかった。ほんの数秒。それから、静かに告げる。「圭吾さんに殺された、と言っています」智恵子の頭の中が真っ白になった。「……やっぱり」声にならないような声が漏れた。胸の奥に押し込めていたものが、一気に崩れる。「やっぱり真琴やったんや……」両手で口を覆った。涙が溢れた。「私がおかしくなったんちゃうかった……」あの声は幻聴ではなかった。自分が娘を亡くした悲しみでおかしくなったわけではない。真琴だった。本当に真琴が自分へ訴えていた。そう思った瞬間、安心とはまるで違う感情が押し寄せてきた。恐怖。後悔。そして怒り。智恵子は振り返った。何も見えない。それでも、その場所へ向かって呼びかけた。「真琴」声が震える。「真琴、ごめんな」返事はない。「お母さん、事故やと思ってた」涙で視界がぼやける。「警察の人も事故やって言うし……お酒飲んでたから、足滑らせたんやろって」自分に言い聞かせてきた言葉だった。事故だった。誰にもどうしようもなかった。そう思うしかなかった。「ごめんな、真琴」ハンカチで目を押さえる。「信じてあげられへんかった」玲玄は黙っていた。
「娘が……真琴が、そこにいるんですか?」智恵子の声は震えていた。玲玄はすぐには答えなかった。智恵子の顔ではなく、その肩越しへ視線を向ける。そこに誰かが立っている。やはり、そうとしか思えない目だった。数秒して、玲玄が口を開いた。「今、森川さんの後ろに若い女性がいます」智恵子は息を呑んだ。振り返りそうになって、やめる。先ほども見た。何もいなかった。「若い……女性?」「はい」「それが……真琴なんですか?」「まだ、私からは断定しません」玲玄の答えは慎重だった。「ただ、二十代くらいの女性です」智恵子の指が、膝の上で強く絡み合う。玲玄は視線を後ろへ向けたまま続けた。「髪は肩より少し下くらいまでありますね。真っ直ぐではなくて、少し癖があります」智恵子の喉が動いた。真琴は、生まれつき少し髪に癖があった。本人はそれを嫌って、よく美容院で縮毛矯正をしていた。亡くなる少し前は、それをやめていた。「服は……白っぽい上着です。胸元に小さな……」玲玄が少し目を細める。「花でしょうか。刺繍があります」智恵子が口元を押さえた。「それ……」声が出ない。「それ、真琴です」玲玄が智恵子を見る。「そうですか」「その服、持ってました」言葉が止まらなくなる。「白いカーディガンで、胸のところに小さい花があって……あの子、よく着てたんです。派手なの嫌いやったから」智恵子の目から、また涙がこぼれた。「先生、それ真琴です」玲玄は「やはり」とも言わなかった。ただ小さく頷いただけだった。そして、もう一度その背後を見る。「……そうですか」まただ。誰かと話している。智恵子には何も聞こえない。けれど、玲玄には何かが聞こえている。そう思うと、胸の奥がざわついた。怖い。けれど、それ以上に。会いたい。「真琴は……何か言ってますか?」智恵子が尋ねる。玲玄は少し黙った。背後を見る。何かを待っているようだった。やがて、「いくつか」と答えた。「何て?」思わず身を乗り出す。しかし玲玄は、すぐには伝えなかった。「順番に確認します」「でも……」「森川さん」声は穏やかだった。それでも、言葉を遮るだけの強さがあった。「私に見えているものと、森川さんが知っていることを、一つずつ合わせていきましょう」「……はい」智恵